カンボジア・タイムズ

カンボジア×哲学

学校や教師が「正解」を教える必要はありません。

学校という「監獄」

学校(特にここでは、一般的な日本の学校を指す)ではテストで一つの答えを探すことを余儀なくされます。

それどころか、頭髪から服装、言動、立ち振る舞いに至るまで。

 

その「正解」は誰が決めるのか?

 

それはまぎれもなく学校であり教師です。

そこで教師は絶対的な権力者として君臨し、生徒たちを支配していく。

 

彼らが決めた「正しさ」に従属するように生徒は強制される。

「従属者」であるように強制された生徒たちは、教師によって主体性がはく奪されていくのです。

 

 

20世紀を代表する教育思想家であるパウロフレイレは自らの著書の中で、こうした「教師が生徒に物事を一方的に教える教育」を「非人間化を推し進める教育」だとして痛烈に批判しています。

 

教師は生徒の管理者であってはならない。

 

これがフレイレが一番言いたかったメッセージなのだと思っています。

(詳細を知りたい方はフレイレの『被抑圧者の教育学』をぜひご覧ください!)

 

この社会は「絶対的な正しさ」が存在しない世界。

社会の中で「一つの正しさ」なんていうものはありません。

強いて言えば、人の数だけ正しさがある。

 

なのに、学校の中ではひとつの「正しい規範」に従属するように強制される。

 

ここが学校という場所が抱える矛盾ですね。

 

答えがない世界の中で、「自分がどうありたいのか」考えなければならない。

そのためには「主体的に想像する力」が必要になってきます。

 

それは「教師が生徒に一方的に正解を教え込む教育」(=フレイレの言う「銀行型教育」)では育まれえないのです。

 

僕は道徳ではなく倫理を教えたい。

同じだろ!っていうツッコミが聞こえますね。

でも、僕の中では明確な違いがあります。

 

僕の定義では

道徳とは何が善い行いなのかを一方的に教え込むこと

倫理とは何が善い行いなのかを自分で考えること

となっています。

 

繰り返しになってしまいますが、答えのないこの世界で「本質」を見極める力は、一方的に答えが提示される「道徳」でば育まれえないと確信しています。

 

たとえば

「人は多くの動物や虫や植物を毎日のように殺している。なのになぜ人殺しをしてはいけないのか?」

みたいな問いは、銀行型教育だけ施されたロボットには到底答えることができません。

 

このような問いに答えるためには、まず「主体的に問いを立て、主体的に思考する能力」が必要になってくるのです。

 

そのためにも、道徳ではなく倫理を。

 

子どもたちが権威に従属しないように。

子どもたちが常識を妄信しないように。

 

何より、子どもたちが「人間として」主体的に生きれるように。

 

 

(今回、カンボジアで教育支援を行うことになったので、このような記事を書き記すことにしました。) 

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